ザ・エレクトリカルパレーズ

という自作映画を観た。初めは『いい歳して』的な感情の比率が高かったが、中盤以降の、ドキュメンタリーとは思えないようなハマった展開の連続に、気づけば魅了されていた。

コメント欄でもちらほら見たが、一種の小説に近い構成だった。複数人に対するインタビューを、謎の核心に迫っていくにつれて小出しで並列していく感じ。これは、朝井リョウ氏の『桐島部活やめるってよ』を彷彿とさせるものらしい。勉強不足すぎて映画も原作小説も読めていないので、今度せめてどちらかだけでも鑑賞してみよう。

物語の中心は、誰もが若者の頃、どんな形であれ一度は接するであろう「イタいイケイケ風集団」。本作でいえば、お笑い養成所NSCでいっとき幅を利かせていた、「ザ・エレクトリカルパレーズ」。イタい以前にそもそも“ジ”だろ、というツッコミはしっかり序盤で回収されていた。

この青春野郎どもをめぐって、当事者、あるいは側からよく思っていなかった者たちが各々の立場から当時を語っていくのだが、その語り口がたまらなく面白い。

展開の都合上、ある程度インタビュアー側が誘導尋問的に進めていく際に、抜群のリアクション、演者力で笑いが次々に起こっていく。誰に指示されるわけでもない、「生の対話」があれだけ面白いのだから、気の利き方が物凄い。月並みな感想だが、改めて芸人ってすごいなと思いました。

 

あ、あと「漫画通」としての顔から入った吉川きっちょむ氏がガッツリ当事者サイドで登場したときはめちゃくちゃアガリました(早口アイキャッチ

 

最後に、僕なりに感じ取った本作のテーマについて少し。

「エレパレ」的な集団に遭遇した経験は、もちろん僕にもある。中学生2、3年生の頃、内輪ノリ王国を気づいていた「D組」だ。あれはしんどかった。今僕が、物事に対して基本肯定的な捉え方をするようになったのは、彼らに対して人生のヘイトストックを使い切ったからではないかと踏んでいる。本作の中できっちょむ氏が、「個々人と接する分にはいいのだが」という前置きをしていたが、まるっきり同じ意見である。そう、きっと同じなのだ。僕だけではなく、皆の周りにいるエレパレ、もしかすると自身がエレパレだったこともあるかもしれない。

エレパレに対する感情なんてものは曖昧なもので、集団からこの“一人”を切り取れば、“一部”を切り取れば、この人“以外”を切り取れば、別に嫌いじゃない。そんな適当な理論がまかり通ってしまうのである。

ただ、そんな不確定なヘイトは良くないものだから、消えてなくなるべきかと聞かれると、実はそうでもないんじゃないかと思っている。誰かを不快にさせるその内輪ノリは、本人たちにとっては人生最高の青春。そういうことも“ある”。「それぞれの見方があるから、マイナスの感情は持つな」ではなく、「それぞれの見方があることを、認識する」。こんなもんでいいのではないだろうか。僕はそれだけで、なにかが変わる気がする。拒絶でも、無理な迎合でもなく、共存。誰かがひときわ無理をすることのないような、そんなバランス感覚の中で、(時には文句でもこぼしながら)生きていきたいな。

 

もっとも、迎合しろと言われても絶対に無理だろうな、という感覚からそう思いたいだけの可能性はめちゃくちゃあると思います。

それでは本日もありがとうございました。はあ…D組しんどかったな。さすがにあんだけ力を尽くしてぴっしり仕上げた卒業式をアドリブでめちゃくちゃにされたらいくらなんでも(自主規制)